佐々木昭美のBIエッセイ 明るく楽しくイノベーション
2010/09/13 未知の至福② 手塚治虫が愛した音楽から着想した作品『火の鳥』『ルードウィヒ・B』
残暑厳しい週末、書斎で冷房に感謝しながら、ゆったりとした気分でCD『手塚治虫の愛した音楽』を聴いていました。添付の冊子をよく見ると、手塚治虫(以下敬称略)の書斎に残された所蔵レコードリストが約400記載されていて、その数の多さに驚きました。その中に収録された曲から、『火の鳥』『ルードウィヒ・B』は音楽から着想された作品であることを思い出させてくれました。皆様既にご存じの方も多いと思います。触発されて、ストラヴィンスキー『バレエ組曲:火の鳥』を新たに買い、ベートーベン『交響曲第9番ニ短調作品125<<合唱>>』もCD棚から取り出し聴きました。
家族全員が手塚大ファンであり、我が家の本棚にはほとんどの手塚作品があります。『火の鳥』『ルードウィヒ・B』も改めて数冊読みました。
音楽を聴き、関連本も読みながら、「着想」「企画力」の背景という広く深い世界を考えていました。
(1)ストラヴィンスキー『バレエ組曲:火の鳥』から着想した手塚治虫『火の鳥』
『火の鳥』第一巻は、「どうだ見つけたぞお」「火の鳥め!!」の書き出しで始まります。美しい古代ヤマトの自然を背景に、「永遠の生命(いのち)」を求めて、部族、個人の酷い戦いを描いています。
この作品の映像の素晴らしさと、人間社会の悲惨や孤独を表現する内容を見て、人間の現実を赤裸々に描いて人気マンガ・アニメを開拓した卓越した企画力・表現力に驚きますね。
作品誕生の着想となったストラヴィンスキー『バレエ組曲:火の鳥』を私なりに聴いてみたいと思い、新たにCDを購入し何度も聴きました。手塚治虫が所蔵していたと同じ音源1919年版です。
CD『手塚治虫の愛した音楽』同封冊子の中で、プロデュースした長女手塚るみ子氏は、「収録楽曲にひとこと」でこう紹介しています。
「手塚のライフワークとも言われている『火の鳥』は、このストラヴィンスキーのバレエ組曲に魅せられて、そのイメージを思いついたといわれている。後に富田勲氏がこの曲をシンセサイザーで演奏したアルバムで、手塚はそのジャケットワークをてがけている。」(参考文献1)
私は、昨年生誕80周年記念特別展『手塚治虫展~未来へのメッセージ』(東京都江戸東京博物館 4/18~6/21)をどうしても観たくて、繁忙の中でしたが時間を生み出し鑑賞しました。(参考文献10:BIエッセイ2009/06/15 『手塚治虫展は、あと6日。肉声・原作・作品に触れ、広がる世界と感動!』詳細はこちら>>)
その特別展会場の<人間とは何か、火の鳥>というテーマゾーンで、『火の鳥 休憩(インターミッション)』直筆原稿を見ました。その中で手塚治虫はこう語っています。
「なぜ鳥の姿をさせたかというと・・・ストラビンスキーの火の鳥の精がなんとなく神秘的で宇宙的だったからです。」「COM」1971年11月号(参考文献8:174ページ)
また、長男手塚眞(まこと)氏は、著書『「父」手塚治虫の素顔』で父手塚治虫をこう語っています。
「基本的に手塚治虫は古典的で美しいものが好きでした。作品の中で現代的なセンスを求めてもいましたが、結局は古典美にのっとったものに落ち着くことが多い。若い頃ディズニーのアニメに憧れたというのも、ストーリー的な部分より絵の美しさや音楽の美しさ、そんなところが魅力だったのだと思います。」(参考文献7:70ページ)
思えば、我々団塊の世代は、「人間とは何か」を多くは古典や小説に求めた世代であるが、子どもたちは手塚マンガから人間を知るのかもしれませんね。「人間とは何か」「いのちとは何か」、どう書いたら良いのか難しい深淵なテーマに立ち向かった手塚治虫。その着想の中に音楽素養の深さがあったのですね。
(2)ベートーベンの生涯を描く大ロマン手塚治虫遺作『ルードウィヒ・B』
『ルードウィヒ・B』が手塚治虫の未完の遺作となった。ベートーベンがピアノを弾いて曲を作るシーン、変奏する場面が登場しますが圧巻ですね。まるで絵から音が聞こえてくるような名場面が印象に残ります。ベートーベンと、彼を生涯の敵と決めたフランツの物語は、どう展開する考えだったのでしょうか。残念でなりません。
【ベートーベンの部屋を訪れた手塚治虫】
第1巻の巻末に、手塚治虫の絵エッセイ「ベートーベンの部屋」が掲載されています。実際に訪ねた際に気づいたことが細やかに書かれています。下の文面からは、手塚治虫の感情移入する姿がよく伝わってきますね。
「ぼくは自分がベートーベンと性格が、ひどく似ているような気がします。気むずかし屋で世間知らずで、しょっちゅうカンシャクを起こしてわがままで・・(略)・・というところです。まだ似ている点があります。それは引っ越し魔だということです。
ぼくは結婚するまでに、八回も下宿を変えました。結婚のあとも四回です。・・(略)・・ベートーベンが無類の引っ越し魔だったことは、あまりにも有名です。死ぬまでに十七回も住まいを引っ越していて・・・」(参考文献4)
【『ルードウィヒ・B』誕生秘話】
絶筆となった『ルードウィヒ・B』の担当編集を務めた元「コミックコム」(潮出版社)編集集の竹尾修氏がこの作品誕生の秘話を紹介しています。少々長くなりますが真相をよく伝えていますので引用します。
「この年の3月、手塚先生は外務省の文化使節としてフランスに行き、そのあとオーストリアに旅行しています。帰国した日曜日、自宅にいた私のところへ、手塚プロの松谷社長から電話が入りました。「手塚先生がいま成田空港へ着いたが、次作の打ち合わせをしたいと言うので、手塚プロに来てほしい」とのこと。すぐに駆けつけると、手塚先生は成田から戻るなり、「プランをまとめます」と言い、ものの30分ほどで20本以上もの作品案を書き上げていました。その中には「富士山大爆発」とか「タイタニック号の悲劇」とか、リンカーンの伝記物など、おもしろそうな案がたくさんありましたが、私がいちばんよいと思ったのは、ベートーベンの生涯を描くということでした。手塚先生も「大作曲家に挑戦してみます」と言われて、すぐに決定。タイトルもその場で『ルードウィヒ・B』とつけました。私は知らなかったのですが、手塚先生はすでにベートーベンの住んだ部屋などを見学しており、これを描きたいという思いはことさら強かったと想像されます。実際、先生はこの作品に非常に意欲的でした。ご自身、クラシックが大好きで、音楽は人間の感情、生き方をも変える力を持っていると感じておられました。その音楽の力を漫画でどのように表現するのか、先生にとっても新たな挑戦でした。」(参考文献1)
「コミックトム」にこの年1987年6月号より、1989年2月号まで連載されました。
手塚治虫の泉のように湧き出る「企画脳」の構造は、一体どうなっているのでしょうか!
(3)驚くほど抜群の音感の持ち主手塚治虫、幼少から音楽に溢れた手塚一家
手塚治虫は、音楽を聴きながら仕事するのが習慣であった。「ぼくは、仕事しながら、スピーカーをガンガン鳴らす。大河物語を描くとき、ロマン派の音楽が流れていると、文字通りロマンチックないい気分になって仕事に脂がのる。」(参考文献1)と、手塚自ら述べています。
そのルーツは育った宝塚にあった。手塚治虫の音楽とのかかわりを身近にいた実妹宇都美奈子氏と長男手塚眞氏の言葉から探ってみました。
【実妹 宇都美奈子:耳で聴いた音を頼りにピアノで曲を弾きこなせるほど抜群の音感の持ち主だった】
実妹宇都美奈子氏は、音大卒業後、ピアニストとして演奏や後進の指導をしている音楽家です。その音楽専門家から見た目で、兄手塚治虫の音楽の実力をこう評しています。
「兄はピアノを弾きましたが、それは母に習ったのではなくて、戦後、大阪大学医学部に通っていたころに我流で始めたものです。とくに基礎から練習したわけでもなく、ちょっとさわっていたら、すぐに弾けるようになったので、周りは驚いたものです。・・(略)・・
とにかく、記憶力と音感がばつぐんでした。曲によっては楽譜も見ずに、耳から聞いた音楽を頼りにだいたい正確に弾きこなしました。・・(略)・・阪大の文化祭だと思いますが、・・(略)・・リストの「ハンガリア狂詩曲2番」なんて、たいへん難しい曲ですが、立派に弾いたものです。」(参考文献1)
【長男 手塚眞:天才のルーツ】
長男眞氏は、天才のルーツを祖父母(手塚治虫の両親)と生活した宝塚の家庭カルチャーにあると指摘しています。特に祖母(手塚治虫の母)が音楽の愛好家であった。
「父は裕福な家庭の長男として生まれました。両親は映画や芝居、小説や科学など、いろいろなカルチャーに興味を持っていました。父はこども時代、そうした文化に接する機会がたくさんあったのです。そして、両親ともに好きだったのが、マンガとアニメでした。
・・(略)・・祖母は・・(略)・・外に対してはお茶目なところがあり、年老いてからもオレンジ色の鬘をかぶり、ブーツを履いて、若い男の子と一緒にバンド(当時だとフォークグループ)に参加したりしていました。音楽の嗜みがあり、ピアノやアコーディオン、琴などを弾いていました。父もピアノやアコーディオンを弾くし、叔母(父の妹)に至ってはピアノの先生をしているというのも、この祖母あってのことでしょう。・・(略)・・
父は子どもの頃から観劇やコンサートに連れて行かれ、マンガを与えられ、アニメを観せてもらっていたのです。」(参考文献7:30~35ページ)
(4)作家赤川次郎氏が、手塚治虫の着想、企画力の根源を語った
※図右:参考文献9 P55より「対話力とは何か?」久恒理論
実は、最近着想という「企画力」の構成概念が頭に残っていて、手塚治虫さんという「不世出(ふせしゅつ)」の世界的作家が音楽からの着想を得ていたことを改めて知り、少し調べながら考えてみた次第です。
【私をひどく刺激した久恒教授の「企画力」という概念】
最近読んだ「小論文の神様」樋口裕一多摩大学教授と「図解教の教祖」久恒啓一多摩大学教授の同郷対談『対話力』の中で、久恒啓一教授の「企画力」の重要性が気になっています。
「対話力は、理解力・企画力・伝達力からなると私は理解しています。理解力は、樋口さんが言ったように、体験や知識によって深まります。伝達力は文章や図解によって説明するというようなことです。
理解力、伝達力は、ある程度自然に身に付きますから、企画力を付けることを考えるといいと思います。企画力を身に付けるのは、ハウツー本をいくら読んでもダメで、自分の体験や教養からでたものではないとホンモノにはなりません。」(参考文献9:55ページ)
【作家赤川次郎が「師に捧げる言葉」で述べた作品を生み出す力】
作家赤川次郎氏が、『火の鳥① 黎明編』で「師に捧げる言葉」という題で解説を書いています。その中に、手塚治虫の作品を生み出す「企画力」の背景について触れた箇所があります。
「小説を書き始めながら、古いフランスやイギリスの映画と文学に我を忘れた高校生のころ、僕は手塚さんがいかにこういう世界から多くを吸収していたかに気付き始めた。・・(略)・・それにしても――誰もが語ることだろうが、やはり言わずにはいられない――「火の鳥」を始めとする、傑作の数々は、到底一人の人間の仕事とは思えない、巨大なものだ。
それは、文学から映画、音楽、医学・・(略)・・。気の遠くなりそうな、知識の広い裾野を持った高峰なのである。」(参考文献4:338~339ページ)
やはり、そうですよね。人生にとって、あらゆる体験、勉強、教養で無駄なものは一切ないのですね。それどころか、その広さと深さの大切さを改めて認識した次第です。未来の技術革新・日本経済成長への期待と、未熟ではあるが教養への熱(あつ)さが未だ同居していた昭和「教養主義」時代に青春を過ごした幸運を噛みしめながら、更に生涯修養の思いを新たにしました。
以上
(参考文献)
1.プラニングプロデューサー 手塚るみ子 CD『手塚治虫 その愛した音楽』
2.手塚治虫『火の鳥① 黎明編』(角川文庫 平成4年12月10日初版)
3.ストラヴィンスキー CD『バレエ組曲:火の鳥』(ピエールモントゥー指揮 1919年版)
4.手塚治虫『ルードウィヒ・B 第1巻 運命の子フランツ』(潮ビジュアル文庫 1993年4月30日 第1刷発行)
5.手塚治虫『ルードウィヒ・B 第2巻 音楽の都ウィーン』(潮ビジュアル文庫 1993年4月30日 第1刷発行)
6.ベートーベン CD『交響曲第9番ニ単調作品125<<合唱>>』(ユニバーサル レナード・バーンスタイン指揮 1979年録音版)
7.手塚眞『「父」手塚治虫の素顔』(誠文堂新光社 2009年5月31日発行)
8.東京都江戸東京博物館、読売新聞社、NHK、NHKプロモーション、手塚プロダクション編集 『生誕80週年記念特別展』カタログ (2009年4月17日発行)
9.樋口裕一+久恒啓一『対話力』(中公新書ラクレ 2009年9月10日発行)
10.佐々木昭美のBIエッセイ 2009/06/15『手塚治虫展は、あと6日。肉声・原作・作品に触れ、広がる世界と感動!』
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