佐々木昭美のBIエッセイ 明るく楽しくイノベーション
2009/11/24 中学・高校で知ったあの名品に出逢い、感慨の連続!!(「皇室の名宝-日本美の華」展 第二期)
私は、中学・高校教科書等で知ったはずである書、絵巻に出逢い、幾度となく深い感慨を覚えました。1,000年前後の時空を超えて名品の実物・実像と初めて対面した。「聖徳太子像」(法隆寺献納物 奈良時代 8世紀)、「螺鈿紫檀阮咸(らでんしたんのげんかん)」(正倉院宝物 楽器 奈良時代8世紀)、「玉泉帖」(小野道風筆 平安時代 10世紀)、「粘葉本和漢朗詠集」(伝藤原行成筆 平安時代 11世紀)、「桂宮本万葉集」(紀貫之筆 平安時代 12世紀)、「春日権現験記絵」(高階隆兼筆 鎌倉時代)、「絵師草紙」(鎌倉時代)、「蒙古襲来絵詞」(鎌倉時代 13世紀)、「更級日記」(藤原定家筆 鎌倉時代 13世紀)、「源氏物語図屏風」(狩野探幽筆 江戸時代)。
第一期(2009年10月13日号BIエッセイ『必見!特別展「皇室の名宝-日本美の華」は驚き、感動の連続でした』 詳細はこちら>>)に続き、天皇陛下ご即位20年記念特別展『「皇室の名宝-日本美の華」展 第二期:正倉院宝物と書・絵巻の名品』(東京国立博物館)を観ました。土曜日朝10時過ぎに到着しましたが、入場10分待ちの行列が出来ていました。あと6日、11月29日(日)までです。お見逃しなく。
東京での公開機会の少ない正倉院宝物・法隆寺献納宝物等と日本文化・歴史の実像を伝える書・絵巻公開への素直な関心が大きく広がっていると感じました。
(1)中学・高校で知ったあの名品は覚えていますか!
最近美術鑑賞は、展示と図説一体で楽しむようになった。眼から見た審美的世界と知的刺激の論理的世界が融合した楽しみの広がりを実感する。ちょっと味わってみて下さい。千円札の肖像となった聖徳太子。最古の「聖徳太子像」は皆様ご存知ですよね。「中央の太子像をひときわ大きく描く形式は唐代の中国の帝王図など、また顔貌の描写形式は、高松塚古墳壁画や唐代の壁画などの共通するものを見て取ることができる。」(参考文献1:173ページ)奈良時代、8世紀頃の作品とされる。1878年(明治11年)に法隆寺から皇室に献上された宝物である。
「粘葉本和漢朗詠集(でっちょうぼんわかんろうえいしゅう)」は、『和漢朗詠集』を上下2帖の小さな冊子本に書写したものという。「『和漢朗詠集』は、藤原公任(きんとう)(966~1041)が朗詠した漢詩文の秀句と和歌を編集したものである。」(参考文献1:183ページ)平安時代、11世紀の作品とされる。漢詩とひらがなの鄭重な文章に唸った。
「桂宮本万葉集」は、「紀貫之との伝承があるが、現在では平安時代後期(十一世紀)に活躍した廷臣 源兼行(みなもとのかねゆき)が『万葉集』巻第四を書写したものと考えられている。」(参考文献1:184ページ)奈良写経全盛期に確立された紙漉き技術によって生産された和紙による書写は、当時の伝承技術であった。
風刺が生き生きと伝わる「絵師草紙」は、覚えていますか。「詞、絵各三段からなる。ある貧乏な絵師に伊予の国を領地として下すという宣旨が下り、絵師一家は大喜び。ところが実際に領地を使者に視察させると治安悪く、年貢もすでにないという。」(参考文献1:191ページ)当時の混乱を示している。やまと絵絵巻として貴重な作品といわれます。
元寇2度の様子を視覚的に伝える「蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)」は、すぐ思い出すことでしょう。「前巻には文永の役における博多湾での戦いと、その恩賞を求める季長の鎌倉下向のくだりが、後巻には弘安の役における海戦の様子と、肥後国守護代・安達盛宗への戦況報告が描かれる。」(参考文献1:192ページ)
現存する『更級日記』では唯一の証本とされる貴重なものである。「更級日記」は、「菅原孝標(すがわらのたかすえ)女の日記として有名な平安時代の自伝文学『更級日記』を鎌倉時代の廷臣で歌人であった藤原定家が書写したもの。」(参考文献1:193ページ)女性の来館者が多い今回の展示にふさわしいひとつである。女性の日記は、当時の生活文化や人間関係を知る貴重な資料でしょう。
江戸時代初期の御用絵師狩野探幽が生み出した「新やまと絵」といわれる「源氏物語図屏風」。「『源氏物語』全54帖の各帖のハイライトとなる場面が右端上から第1帖の「桐壺」より順に描かれている。金箔の金雲や大小の切り箔、金泥や銀泥で画面はあでやかさに溢れている。」(参考文献1:201ページ)華麗な中に静謐でバランスのある描写に驚きました。
(2)1,250年の歳月を繋ぐ正倉院宝物と、映像にみる伝承への地道な活動
正倉院正倉は、記憶にある方が多いでしょう。東大寺大仏殿の北西約300メートルにあります。私も数年前に奈良旅行の際に外から見ました。かつて存在した東大寺倉庫群の一棟で最も大きく重要な倉であったといわれる。752年から756年の間には完成していたという。今回公開された正倉院宝物は、正倉院正倉に伝わった文物群で、約9000点ある。正倉院宝物の由来は、4つに分類される。製作地は、日本・唐・朝鮮である。
1.聖武天皇および光明皇后ゆかりの品々を東大寺に献納した品
今回出陳された中では、「漆胡瓶(しっこへい)」というペルシャ風の水瓶に目が留まった。唐製らしい舶来品。ササン朝ペルシャ流行の器形で、当時の国際的交流を感じさせる。
2.752年4月9日の大仏開眼会に関連する皇族・貴族の献納品
3.東大寺の造営や修理所管丁である造東大寺司の関係品
4.東大寺の仏具
図説表紙(参考文献1)は、正倉院宝物の宝飾鏡「平螺鈿背円鏡(へいらでんはいのえんきょう)」です。青銅製の鏡の背面を、ヤコウガイの殻である螺鈿(らでん)・べっこうと呼ばれるウミガメの甲羅である玳瑁(たいまい)、化石化した樹脂である琥珀(こはく)、トルコ石などで飾っている。唐製か。奈良時代、8世紀の製造とされる。
展示場1階では正倉院宝物の修理・保存の伝承模様を伝えるDVD映像を観ました。また、正倉院宝物の模造制作活動を紹介する特別関連展示もあります。
正倉院宝物の驚異的保存性能について、最近の研究では従来の木材による隙間直接調整説は否定され、木材空間の外気相対湿度の変化幅1/5、更に唐櫃の中の気温変化幅が15/100と小さいことの効果説が有力である。
昔の保存と点検は、曝涼と呼ばれる風通しと点検であったが少なかった。明治新政府以降は不定期であるが頻繁になった。明治5年(1872年)に廃仏毀釈の暴風雨の中でも、「社寺宝物調査」が実施され、明治16年(1883年)に年1回曝涼の制が決まった。明治25年(1892年)赤坂離宮に宮内省の正倉院御物整理掛が設置された。大正3年(1914年)には奈良帝室博物館に正倉院掛が置かれた。第2次大戦敗戦後は、正倉院事務所は、帝室博物館と分かれて、保存機関として出発した。
昭和37年(1962年)に耐震・耐火コンクリート造りの新収蔵庫(西宝庫)が完成。
昭和39年に東宝庫に空調設備が付加され、正倉にあった宝物は順次収蔵庫に移された。最近は、保存の困難な衣服や調度の絹織物の模造技術による補修・復元等が皇室の協力も得て実施していると紹介されている。
日本経済新聞編集委員 宝玉正彦氏は、「皇室が長い歴史の中で果たした文化的な役割の重さが伝わってくる。」(参考文献2)と本展示紹介記事を結んでいる。
(参考文献)
1.東京国立博物館・宮内庁・NHK・NHKプロモーション編集 図録
『御即位二十年記念特別展 皇室の名宝-日本美の華 二期:正倉院宝物と書・絵巻の名品』(NHK・NHKプロモーション・読売新聞社・日本経済新聞社 2009年10月6日)
2.日本経済新聞 2009年11月19日付 33面 「皇室の名宝-日本美の華」展