佐々木昭美のBIエッセイ 明るく楽しくイノベーション
2009/07/27 フジ子・ヘミング:世界稀有のピアノ音色と著書「運命の力」が語る真実に惹かれる
フジ子・ヘミング(フジ子と略称する)のピアノ演奏を書斎で聴くことが多い。皆様も良くご存知のピアニストである。書架にCD、本、DVDが増えている。いつの間にか好きなピアニスト、フジ子・ヘミングファンになったようだ。絵画力も素晴らしい筆致である。人間の心に触れあう独特の音色に生まれて初めて出会ったような気がした。その時の心の震え、日本人ピアニスト?への驚きは今も忘れない。神様は、世界稀有なピアニストをこの地球に使わしたのだと思う。
音痴気味でありながら音楽愛好者の私が、珍しくCD・本・DVDを購入し、聴き、読み、見た。あの人間の色をした音色の秘密を知りたくて。フジ子・ヘミングのピアノが伝える人生の音色に私は取り込まれたのかもしれない。
親しい友人からフジ子・ヘミングのCDを貸して欲しいという話があり、喜んですぐ貸すことを承諾した。ところがいざ渡す段になって、改めてすべてのCDを聴き、本も読み直した。それがBIエッセイ作成につながる機縁となった。友人に感謝したい。
(1)心に響く独特の音色~リスト、ショパンのために生まれたピアニスト
1999年2月、NHK教育テレビのETV特集『フジコ~あるピアニストの軌跡~』で紹介されて、フジ子ブームが起き、コンサートは常にソールドアウト、CDも大ブレイクした。2001年には、ミュンヘン交響楽団との共演、カーネギー・ホールへのデビューコンサート、以後世界的に音楽活動を続けている。皆様、よくご存知の通りである。2003年10月には、フジテレビ系ドラマ『フジ子・ヘミングの軌跡』が放映された。
私だけでなく多くの方が魅力を感じるフジ子ヘミングいう表現は当然であるが、音痴気味の私にさえ感動を与えるピアニストが現れ、出会ったという表現がより適切であろう。
私も、CD『奇蹟のカンパネラ』、『永久への響き』を早速買い、何回も聴いた。心に響く独特の音色に聴き入る。初めて聴いた時は感動に震えた。聴衆に詩情を語りかけるような日本人?しかも高齢で無名のピアニストの存在に驚いた。それから10年経ったが、日頃書斎で聞く一番のピアニストはやはりフジ子・ヘミングである。既に1968年当時ドイツの新聞で「リストとショパンを弾くために生まれてきたフジ子・ヘミング!!」と大絶賛されたピアニストである。
彼女の演奏する曲はすぐ私にも聞きわけられる。脳科学的に言うと、あの音色は、音符にフジ子独特のアルゴリズムが付加されて私の大脳皮質に格納され、演奏と共に再現するのであろうか。では音楽論としては、どういう意味があるのだろうか知りたかった。
音楽ジャーナリスト伊熊よし子氏は、こう語っている。
『音楽家はしばしば、究極の夢というのは「1小節を聴いたら、すぐに自分の音だとわかる音楽を奏でること」と口にする。それは歌手にとっては可能なことであっても、器楽奏者にとってはかなり難しいことである。ひとつのフレーズを聴いてすぐに演奏家の名が浮かぶという演奏は、そうそう生まれるものではないからだ。しかしながら、ここに出だしを聴いただけでその人が弾いていることがすぐにわかるというピアニストが現れた。・・(略)・・フジ子・ヘミングである。』(参考資料5)
音楽評論家の林田直樹氏は、「フジ子・ヘミングの演奏について」と題してこう述べる。
ちょっと長くなるが、芸術論としても重要なことのようなので紹介する。
『フジ子・ヘミングの弾くピアノ-それは、間違いなく、彼女だけにしか出せない特別な色を持っている。いわゆるクラシック音楽の世界では、「より早く」「より激しく」「より新しく」といったことが優遇されてきた。しかし、フジ子の音楽は違う。「物思いにふけながら弾ける曲が好き」。そんな言葉が証明するように、フジ子の音楽には。どんな曲を弾いている時でも、ひとつひとつの音の意味を考えているフシがある。1回1回がまるで違う演奏なのではないかと思われるほど、「物思い」の痕跡を音楽にとどめている。それは、いわゆる規格品としての商業音楽には元来ふさわしくない、もっとも個人的な贈り物のような性格をもつものだ。そうした音楽がいま社会現象的に売れているということの皮肉を思わずにはいられない。・・(略)・・「より速く」の世界からは、すっかり背を向けている。奇をてらうというのとは違う。やはり、どん底を見たことのある人間にしかできない、ある種の“強さ”が、そうさせるのだろうか?芸術とは確かにそのようなことかもしれない。芸術に触れようとする人は、純粋な美を堪能するというよりも、結局、人間的な贈り物を受け取りたいものなのだ。』(参考資料6)
指揮者で作曲家である山本直純氏は、「心で歌うピアニズム」というテーマで以下のように讃えている。
『我国では、昨今、若いピアニストたちが、テクニックを競う時代となりましたが、フジコさんの様に、心で歌うピアノは、誠に貴重な存在と云えましょう。ショパン、リスト、ラフマニノフなど、いわゆるヴィルティオーゾたちの作品に於いては、絢爛豪華なテクニックに耳を奪われがちですが、演奏家にとって、一番大切なことは、心に訴える芸術性であることは云う迄もありません。フジコさんの音楽を愛する心が、そのまま鍵盤を通じて、聴衆に感銘を与え、魅力あるピアニズムを感じさせるのでしょう。』(参考文献1:12ページ)
(2)フジ子・ヘミングが語る『運命の力』
フジ子・ヘミング自身の著『フジ子・ヘミング 運命の力』で語られた真実に胸を激しく打たれた。こんな人生は本当に実存するのか?フジ子・ヘミングは、運命の力を信じて生きたという。颯爽として、平然とした雰囲気で語る思い。何という強さ、気高さなのか!
<ピアノがあって・・・>
フジ子は幼少時代、日本人であった母がよく弾くショパンの曲を聴きながら眠った。母は、東京音楽学校(現在の東京芸術大学)出身のピアニストだった。ピアノは身近な生活の一部であったという。5歳の頃から、母の指導でピアノを弾く毎日となった。青山学院、東京芸術大学、ベルリン音楽学校、そしてウイーンへ。やっと、一流のピアニストとして認められるリサイタルの直前に風邪を引き、中耳炎になり聴力を失った。演奏会はキャンセルとなり、それからは絶望の日々が本当に長く続いたのである。永遠に続くと思ったに違いない。
フジ子自身は、「もう、私の出番は天国にしかないだろう、と長いこと思っていた。」(参考文献3:14ページ)という。
<音楽はみんなのためにある>
お客様を大事にするフジ子の音楽観を聞いてうれしくなった。聴力を失った長期不遇のピアニストの再起を実現したものもお客様であった。フジ子のピアノとその音楽観が彼女を救ったのだ。『演奏会のプログラムは誰にでも親しみがあって、観客が喜ぶような曲を選んでいる。それは、私が好きな曲でもある。・・(略)・・クラシックの世界で間違っていると思うのは、なぜ誰も知らないような曲をならべたがるのか。・・(略)・・音楽は批評家のためにあるものではないのだから。リストやブラームスの『ハンガリー狂詩曲』は、家のないような貧しい人たちの音楽を書いた曲。ドイツにいるときから私はよく弾いた。そしたらある教授が怒った。「そんな曲を弾くな!」と。私は怒った。「じゃ、なんでそんな変な曲を、リストは作曲したのか」って。リストは、貧しい人たちに心があったから、そこに耳を傾けて作ったのだ。日本の『会津磐梯山』『木曽節』とかは、庶民のために作られた曲でしょ。そういう人たちに耳を傾けて、温かい心で唄を作った人が日本にもいっぱいいる。・・(略)・・音楽はみんなのためにあるのよ。』(参考文献3:18ページ)
1995年、母の死を契機に日本に戻り、日本のお客様に知られたフジ子・ヘミングは不死鳥のように蘇った。フジ子は、晩年の運を切り開いてくれたのは母であり、今日の自分があるのはなんといっても母のおかげだと感謝の言葉を述べている。
<壊れそうな『カンパネラ』があったっていいじゃない。まちがったっていいのよ>
フジ子は、ファンからの手紙に応えて、自らのピアノについてこう語る。『私のピアノはテクニックで弾くというものではない。音のひとつひとつに色をつけるように弾くのだ。・・(略)・・私は自分の弾くリストの「ラ・カンパネラ」がいちばん好き。鳴り響く鐘の音を模した曲。ぶっ壊れそうなピアノの演奏があってもいいじゃない?私は機械じゃないんだから、いつも同じような気持ちでピアノを弾くことなんてできない。小さなミスを問題にするより、どういう音で私らしく弾くか、それが問題。・・(略)・・耳が聞こえなくなってピアニストになる夢をあきらめかけ、ドイツの町々を音楽教師を続けながら移り住んだ。そうしながらも少しずつリサイタルを開けるようになり、毎回盛況だったから自分でも驚いた。無名だったけれど、不思議にファンは多く、私はこのドイツの聴衆にいつのまにか支えられているのを感じた。報われなかったことや辛かったことに耐えた経験が、音の響きや音色に表われ、プラスになっている。』(参考文献3:23ページ)
<音楽と猫が人生を救った>
失意のどん底を救ってくれたのは音楽と猫だった。ヨーロッパではいつも数匹の猫と一緒だった。『「人生の艱難辛苦から逃れる道はふたつある。音楽と猫だ」 これはドイツの偉人アルベルト・シュバイツアーの言葉。・・・私も人間関係のもつれや不運など、つらいことが多かったけれど、それを乗り越えられてきたのは、猫と音楽があったから。招き猫っていうでしょ。ほんとうにそう。彼らに幸せを招いてもらった。』(参考文献3:35ページ)
<画家フジ子・ヘミング>
フジ子の絵が、プロ並だと私は思う。本やCDの絵から画家フジ子・ヘミングの片鱗が窺える。父は、ロシア系スウェーデン人で画家だった。素敵な漫画を書き、後に建築家となった。フジ子はナチス体制化のベルリンで生まれた。5歳の時、一家は東京に戻るが開戦の気配を嫌って父は日本を去り、以来再び父と会うことはなかったという。以後彼女は母の手一つで育てられる。
小さい頃、叔母によく預けられた。その叔母は日本画の画家だったから、預けられると絵なんかを好き勝手に描いていたという。
映画が好きな母は、よく映画館に連れていってくれた。フジ子も青山学院時代は、学校をさぼって映画を観に行くこともあった。
『ヨーロッパに渡ってから、まったく何も聞こえてこない状態が2年間続いた。音を失ってからのなぐさめは、絵を描くことだった。・・(略)・・私は、ロートレックや竹下夢二の描き方を参考にすることが多い。線が力強くて、職人芸的でないところに惹かれている。』(参考文献3:70~72ページ)
<住みたかったフランスで暮らすフジ子>
今、フジ子は、フランスに家を持ち暮らしながら、音楽活動を続けている。パリは憧れの地であるという。2001年以下のように述べていたことが実現できたようだ。きっと笑顔の中にいると信じている。『年をとってピアノが弾けなくなったら、1年の半分くらいはパリに住みたいと思っている。ヨーロッパは、物価も安くて暮らしやすい。それに有名な人が住んでいた家が今でもちゃんと残されている。それを見るのに一日や二日では、到底まわりきれない。パリに住むようになったら、そんなことをして過ごすのもいいかなあと思う。それに美術館や教会、いろいろなところをじっくりと見て歩きたい。』(参考文献3:111ページ)
(参考文献・資料)
1.本 『フジ子・ヘミングⅠ:奇蹟のカンパネラ』((株)ショパン1999年10月初版)
2.本 『フジ子・ヘミングⅡ:ピアノがあって、猫がいて』((株)ショパン2000年4月初版)
3.本 フジ子・ヘミング『フジ子・ヘミング 運命の力』((株)ティビーエス・ブリタニカ 2001年6月初版)
4.CD フジ子・ヘミング『奇蹟のカンパネラ』(ビクターエンタテインメント(株) 1999年8月)
5.CD フジ子・ヘミング『永久への響き』(ビクターエンタテインメント(株) 2000年4月)
6.CD フジ子・ヘミング『トロイメライ』(ビクターエンタテインメント(株) 2003年1月)
7.CD フジ子・ヘミング『雨だれ』(ビクターエンタテインメント(株) 2003年11月)
8.CD フジ子・ヘミング『Melodies of Remembrance』(ビクターエンタテインメント(株) 2003年12月)
9.CD フジ子・ヘミング『こころの軌跡』(ビクターエンタテインメント(株) 2004年3月)
10.DVD NHKソフトウェア 『フジコ:あるピアニストの軌跡』(ビクターエンタテインメント(株) 2000年4月)