佐々木昭美のBIエッセイ 明るく楽しくイノベーション
2009/06/15 手塚治虫展は、あと6日。肉声・原作・作品に触れ、広がる世界と感動!
繁忙の平日、時間を捻り出して、生誕80周年記念特別展『手塚治虫展~未来へのメッセージ』(東京都江戸東京博物館 4/18~6/21)を観た。どうしても、手塚治虫さん(以下、敬称を略します)と会いたかった。素晴らしい数々の作品は、ある程度知っていたが、素顔の手塚治虫さんと、彼の心のメッセージを直接聞いてみたいと思った。中学生、高校生の男女。若い女性たち、老若問わずカップルも多い。若い母親と小さな子どもの姿。男女の年配者グループも目立つ。広い年代に人気の漫画家であることが一目でわかる。
日本と世界に、夢のあるストーリーマンガ世界、アニメーション映像を創造した漫画家は、やはり手塚だと思う。細密な虫観に裏打ちされた描画と、あの爽やかでドキドキ・ワクワクする広々とした世界を治めるストーリーは、どうして泉の如く湧き出るのだろうか。その秘密を探しに行った。
会場の中にある8分間の紹介VTRも忘れないで見てほしい。手塚の肉声と出会える。「生きるということを伝えることが一生の仕事だった」という言葉が強く耳に残った。本当に観て良かったと思った展示会でした。人間手塚治虫に触れた感動が深い。一人の天才の生き方から学ぶものは多い。皆様もご家族でいかがですか。あと6日、6月21日(日)迄です。
今年10月には、映画『ATOM(アトム)』が、全世界で公開される。楽しみである。
(1)天才少年漫画家“手塚治虫”誕生のエピソード
<ペンネーム治虫の誕生>
大阪府豊中市で1928年(昭和3年)11月3日誕生。同日は明治節(明治天皇誕生日)である。フランス製映写機を持ちディズニー映画好きで、マンガ好きの父が明治の「治」一字をもって治(おさむ)と命名した。5歳の時に兵庫県宝塚市にあった祖父の実家に一家で引っ越した。宝塚の自然の中で昆虫採集が好きな少年となった。1939年(昭和14年)小学5年生のときに友人とマンガ誌を作った。昆虫好きの治少年は、甲虫の「オサムシ」という存在を知り、自分で「治虫」というペンネームをつけたという。昆虫手帳、昆虫標本の写生は、ビックリする程すばらしい細密な描写である。<小学3年で最初のマンガ誕生>
自らをモデルにした『ピンピン生チャン』肉筆本を見た。小学3年生だった1937年(昭和12年)、巨匠のマンガ処女作誕生である。級友はもちろん、先生たちの間でも評判となったという。<宝塚歌劇団の機関誌にマンガを描く>
宝塚で育ち、母親が歌劇ファンの環境の中で、少年時代から宝塚歌劇の虜になったらしい。後に歌劇団の発行する「歌劇」に掲載された『マノンレスコオ』『ゆめものがたり』、「宝塚グラフ」掲載の『HAPPY NEW YEAR 1948』を見た。夢のある美しい映像の手塚マンガは、宝塚歌劇が育んだ面が多分にあると感じた。<マンガ家・手塚治虫の誕生>
デビュー作『マアチャンの日記帳』は、1946年(昭和21年)1月4日、『少國民新聞(のち毎日小学生新聞)関西版』で四コママンガ連載がスタートした。大阪大学医学専門部で学ぶ18歳である。作品は好評で1ケ月の予定が3ケ月に延長されたほどである。<衝撃40万部発売。戦後マンガ『新寶島』誕生>
『新寶島』肉筆原稿を見た。日本の漫画界の人材が影響を受けた戦後マンガは、酒井七馬原作、手塚治虫作画の『新寶島』であると異口同音に述べる。1947年(昭和22年)1月30日に発行され、約40万部爆発的に売れた。「赤本」と呼ばれていた子供向けの安い価格の単行本であった。手塚19歳である。(2)テーマゾーン『鉄腕アトム』『BLACK JACK』『火の鳥』
我が家の家族本棚には、手塚治虫『鉄腕アトム』『BLACK JACK』『火の鳥』がある。家族みんなに人気の漫画であったことを物語る。もう古い時代かもしれない『鉄腕アトム』は一部しかないが、『BLACK JACK』と『火の鳥』はシリーズで揃っている。我が家は例外ではないと思う。多くの世代の心を惹きつける魅力は何なのでしょうか。本展示会の『「テーマゾーン」では、「鉄腕アトム」「ブラック・ジャック」「火の鳥」の3作品を中心に、手塚の息吹が伝わってくる直筆原稿や、作品世界を体感できる展示により、「未来の夢」「生と死の本質」「人間とは何か」という手塚が生涯をかけて取り組んだテーマに光をあてます。』(参考文献1:5ページ)
<未来の夢、鉄腕アトム>
初期の『アトム大使』構想ノートを見た。TVから聞こえて来る“十万馬力の 鉄腕アトム”という主題歌を口ずさんだ方は多いと思う。子ども達のヒーローであるアトムは、天才科学者の息子の代替品として作られました。
『何よりも手塚治虫を有名にしたのは、テレビ用にアニメーション番組を作ったことです。個人作家のアニメ会社としては初めての試みでした。「鉄腕アトム」は日本初の連続TVアニメです。たくさんの子ども達が夢中になり、多くのキャラクター・グッズが売られ、大ブームになりました。似たような番組が次々に作られて、たちまち日本はアニメ王国となっていったのです。』(参考文献6:8ページ)長男手塚眞(まこと)氏の冷静な分析に頷く。
その鉄腕アトムは、当初『アトム大陸』という構想だった。原子力を平和利用する大陸を舞台にした物語だったとされる。編集者から、大陸では話が壮大すぎるという意見を取り入れ、『アトム大使』に直し、連載した。しかし、あまり人気がなかったので、編集者からこのアトムというロボットを主役にしたらどうかという再度の意見を取り入れ『鉄人アトム』に変えた。題名が重いということで最終的に『鉄腕アトム』が生まれた。手塚は、編集者やスタッフの意見も参考にした作家だった。
<生と死の本質、ブラック・ジャック>
表紙の写真にみるブラック・ジャックのミステリアスな絵は、皆さんよく覚えていることでしょう。天才的技術を持ちながらも、法外な治療費を取る無免許の外科医、ブラック・ジャックは自問自答を繰り返す。1953年(昭和28年)9月18日交付の医師免許証を見た。手塚は正真正銘の医師であり、医学博士でもある。学生時代からマンガ家となり、本人は、医師でありながら治療をしなかったことを後悔していると友人に漏らしたことがあったそうであるが、その深い医学知識がもたらした価値は余りあるものと思う。
医師ブラック・ジャックというキャラクターを設定した。考えながら描き、描きながら考え続けたのではないか。そして、一緒になって考えてほしいと思っていたと思う。生と死にどう向きあうべきか。もちろん、一見オドロしい死というテーマを表現し、若い世代を含めて成功することは簡単でないこととも十分過ぎる程知っていた手塚が敢えて挑戦した作品だと思う。
当初は、四回程度の短期連載の予定だった。それなら主人公を思い切りミステリアスな姿にしてやれと、ブラック・ジャックのあの格好ができたそうです。ところが人気が出て、8年続いた記念碑的作品となった。結果を問う前に、やるべきテーマの重要性への思いや好奇心が完全に勝っていたに違いない。偶然性をものにする果敢なアイデアに脱帽する。
<人間とは何か、火の鳥>
『火の鳥 休憩(インターミッション)』直筆原稿をみた。「なぜ鳥の姿をさせたかというと・・・ストラビンスキーの火の鳥の精がなんとなく神秘的で宇宙的だったからです。」(参考文献1:174ページ)と語っている。
また、眞(まこと)氏は、「基本的に手塚治虫は古典的で美しいものが好きでした。・・(略)・・若い頃ディズニーのアニメに憧れたというのも、ストーリー的な部分より絵の美しさや音楽の美しさ、そんなところが魅力だったのだと思います。」(参考文献6:70ページ)と述べている。
この作品の映像の素晴らしさと、人間社会の悲惨や孤独を表現する内容を見て、どう書いたら良いのか難しい。我々の世代は、古典や小説に「人間とは何か」を求めた世代であるが、子どもたちは、手塚マンガから人間を知るのでしょうか。人間の現実を赤裸々に描いて人気マンガを開拓した卓越した描写に驚愕する。
『火の鳥⑥望郷編』解説で、新井素子さんの「永遠の孤独」という文の一部を紹介する。
「火の鳥は、不老不死の霊鳥。なのに、変な話なんだけれど、私は、この作品を読む度に、とにかく不老不死は嫌だって気分になってしまうのだ。例えば『未来編』のマサト。私は、彼のような運命にだけは、絶対、陥りたくない。彼は、人類が、絶滅した後、新たな人類が発生するまで永遠に生きなければならないのだ。『望郷編』のロミ。コールドスリープを繰り返し、一つの文明ができるまで永遠に生き続けた彼女は、夫に死に別れ、自分の子供達と結婚して子孫をふやさなければならない、一つの星にたった一人の、孤独な女性だ。『復活編』のレオナ。・・(略)・・『宇宙編』のナナ。・・(略)・・彼らのことを考えると死があるのは救いだって思えてくる。そりゃ、生きている以上、私だって、死にそうになったら、石にすがりついてでも生きたくなるだろう。それでもやっぱり、いつかは必ず死ぬ。そしてそれは―――きっと救いであると思う。また。永遠に縁のない私には、夫だの、友達だの、家族だの、孤独って言葉と反するものがいてくれる。」(参考文献4:340~342ページ)
(3)宮崎駿「手塚さんは闘う相手だった」~手塚治虫展カタログ:5人の寄稿文が物語る手塚治虫とは?
手塚礼讃一辺倒でない5人の寄稿を載せたカタログは、辛み・渋みもあって自然味があるユニークなカタログとなっている。じっくりと読んだ。漫画世界の複線的広がりを知ることができた。3名の方の語る手塚治虫との出会いの一部を紹介します。<8歳の時、『新寶島』に熱狂。映画評論家 石上三登志(いしがみ・みつとし)>
8歳の時に、赤本漫画『新寶島』に出会い、熱狂し、大ファンになり、様々に影響を受けたという。手塚漫画の影響から、石森章太郎、藤子不二雄らのマンガ家が出現した。「まず、私をとらえたのは、その表紙だ。なんと、赤い大きなタイトルで、SHINTAKARAJIMA・・・これに、最も目を見張った。「英語だ!」なのである。・・(略)・・そして内容。主人公の少年が、宝島の地図を手に、海賊やらターザンにまで出会うというお話は、今から見ればどうってことないだろう。しかし、こういった外国的な「世界」も、私たち「戦中」子供にはまるでなかったのだ。」(参考文献1:9ページ)
<手塚さんの亜流はいやだった。アニメーション映画監督 宮崎駿(みやざき・はやお)>
7歳でやはり『新寶島』で衝撃を受けた。当初漫画家を志した宮崎監督は、漫画家を諦めてアニメーターになった。漫画家にとって、手塚さんは、大きな壁であったという。『よく子供のころ、みんな似顔絵で鉄腕アトムとか描きますけど、僕は一度も手塚さんの絵を模写したことがないですよ。たぶん「人のマネするな」というおふくろのせいだと思うんですけど、「漫画描くならデッサンからやれ」とかね。ファンとして手塚さんの亜流にはなりたくなかった。・・(略)・・結局、自分の絵が描けなくて、漫画家になるのはダメだなって自分で判断してアニメーターになった。アニメーターは絵を自分で描かなくていいわけですよ。』(参考文献1:13~14ページ)
<手塚さんに勇気をもらった。作家 夢枕 貘(ゆめまくら・ばく)>
手塚さんの大ファンであるという作家の夢枕 貘さん。まず、その膨大な“量”に敬服するという。『こんなのムリです。手塚治虫以外に、こんな人はおりません。・・(略)・・原稿総枚数15万枚以上。総タイトル数600以上とも700以上ともいわれている。子供向け、少年向け、少女向け、大人向けの作品から、四コマ、ヒトコマ漫画まで描き、製作したアニメーションは70作。死ぬ寸前まで描き続けた。今でも、手塚治虫は、ぼくの勇気と力こぶのもとである。』(参考文献1:25ページ)
以上
(参考情報)
手塚自身のマンガ論、アニメーション論は、以下に参考情報があります。
BIエッセイ2009/5/18『絵図力・図改良の効用学んだ“私の図歴書』(1)少年時代番外編:絵と言葉の世界的コンテンツ「マンガ」~手塚治虫『鉄腕アトム』 詳細はこちら>>
(参考文献)
1.東京都江戸東京博物館、讀賣新聞社、NHK、NHKプロモーション、手塚プロダクション編集カタログ『生誕80周年記念特別展 手塚治虫展~未来へのメッセージ』(2009年4月)
2.手塚治虫『鉄腕アトム』(講談社 手塚治虫漫画全集 1981年)
3.手塚治虫『BLACK JACK①』(秋田書店 1993年)
4.手塚治虫『火の鳥⑥望郷編』(角川文庫 1992年)
5.手塚治虫・石子順『手塚治虫 漫画の奥義』(講談社 手塚治虫漫画全集別巻9 1997年)
6.手塚眞『「父」手塚治虫の素顔』(誠文堂新光社 2009年5月)
7.東京都江戸東京博物館公式ホームページ http://www.edo-tokyo-museum.or.jp/index.html