佐々木昭美のBIエッセイ 明るく楽しくイノベーション

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2009/02/09 慶応義塾創立150年記念『未来をひらく福澤諭吉展』

『異端と先導』のテーマを掲げ、慶応義塾 創立150年記念『未来をひらく福澤諭吉展』(2009年1月10日~3月8日)が、上野公園の東京国立博物館で開催している。

 日本の近代を築いた「文明開化」時代の教育者福澤諭吉先生(以下、敬称略)に出会い、その呼吸を感ずる夥しい貴重な現物展示である。1時間はあっという間に過ぎる、落ち着いて見るには最低2時間は欲しい。すばらしい展示内容は、主催者、関係者の努力の賜と参観者の一人として感謝の気持ちで一杯である。皆様にも、是非足を運んで頂きたいと思う。

福澤諭吉ほど、日本人に知られた一般人(民)はいないかもしれない。1万円札の肖像、『学問のすすめ』の著者、慶応義塾の創設者、時事新報・交詢社創設等。その時を示す展示物を目の前で見つけた時、私は150年前の時代における新しい挑戦がどれほど困難なものであったか、激しく熱い思いに胸を揺さぶられ続けた。現在でも新しいことへの挑戦の厳しさは身をもって何度も体験している。学ぶということは実践することである。多くの有為な人材が輩出した。“独立自尊”を全身で感じる心暖まる時間に感謝で一杯である。
未来をひらく福澤諭吉展

(1)その時を見つけて、心を打たれた展示
 -咸臨丸渡米・幕府遣欧使節・米国使節と3回渡航し当時屈指の世界見識-

 【福澤諭吉写真 写真館の少女と共に】(万延元年 1860年)
 1860年、幕府遣米使節として軍艦奉行木村摂津守喜毅(よしたけ)の従者として咸臨丸で渡米。航行指揮は、勝安房守(海舟)である。諭吉はサンフランシスコの町中を見て回りましたが、そこの写真屋の少女と一緒に写真に写っています。当時、女性と一緒の写真は珍しい。茶目っ気もあったのでしょうか。

 【グーテンベルグ印行『42行聖書』上巻】(1455年頃)
 1862年、27歳の諭吉は遣欧使節として、パリ、ロンドン、オランダ、ベルリン、サンクト・ペテルブルグと約1年滞在した。諭吉は、日本人として初めて、グーテンベルグ聖書をサンクト・ペテルブルグで目にした。

 【乳母車(福澤諭吉アメリカ土産)】
 ヨーロッパから帰国して4年後、32歳の諭吉は慶應3年(1867年)軍艦を受け取る使節として渡米し、ホワイトハウスでアンドリュー・ジョンソン大統領と謁見もしました。子煩悩だった福澤は、アメリカ土産として乳母車を持ち帰った。

 -諭吉23歳創設の蘭学塾は、慶應義塾総合大学へ-

 【慶應義塾入社帳(姓名録)】(文久3年 1863年)
 母お順の寛大な了解で大坂に出、20歳で緒方洪庵先生の適塾に学び、22歳で塾頭となった諭吉。安政5年(1858年)10月頃、江戸築地の鉄砲州に蘭学塾を開講し、後に英語塾に変えた。慶應4年(1868年)、「慶應義塾之記」と題する文章を草し、塾を慶應義塾と命名した。
『現在、この塾のあった場所には「慶應義塾発祥の地」という碑が建てられています。ちょうど聖路加国際病院の前にあるロータリーのところです。』(参考文献5:40ページ)
以降は、塾は志を同じくするものの「会社」、姓名録は「慶應義塾会社」の社中に加入する「入社帳」と名前を変えて、学籍簿の役割を果たしたとされる。
 
 【明治25年第1期慶應義塾卒業生(普通科正科)写真】(明治25年 1892年)
 明治23年(1890年)、ハーバード大学総長の推薦する米国人教員を招請し、文学科・理財科(経済学部の前身)・法律科なる大学部を創設した。当時の内外教師陣が見える。
当時の大学は希望者が少なく、存廃が議論されたが、明治31年(1898年)幼稚舎から普通部を経て大学部に至る一貫教育が始まり、経営が安定していった。

 -『学問のすゝめ』出版-

 【福澤諭吉 『学問のすゝめ』初編(初版)および続編】(明治5年 1872年)
 『天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」という。・・(略)・・『実語教』という本に、「人、学ばざれば智なし、智なき者は愚人なり」とあるように、賢い人と愚かなる人との差は、学問をしたかしないか、によって決まるのである。』(参考文献4:18~19ページ)
と学問を奨励し、激烈な調子で国民を叱りつけ激励したと言った方が良い。文体が当時としては異例の通俗文で書かれており、誰にでもわかる。初編がよく売れたので毎月のように続編を出し、結局第17編まで発刊され、全部で340万部以上売れました。延べでいえば、国民の十人に一人の割合で普及したことになる大ベストセラーでした。

 -文明とは何かを説いた『文明論之概略』刊行-

 【福澤諭吉『文明論之概略』】6冊(明治8年 1875年)
 『西洋諸国の事情をいわば切り売り的、断片的に紹介していた従来の記述書とは異なり、初めて西洋文明の本質を大局的に論じ、日本の文明化が独立達成の唯一の道であることを説いた、福澤の代表的著作』(参考文献1:99ページ)
である。大きく古風な文語文で50代以上の既存リーダー層へのアピールを狙った。

 -文明の交際法=社交の場である交詢社創設-

 【福澤諭吉 交詢社第1回大会演説草稿】(明治13年 1880年)
 東京両国で開催された交詢社第1回大会の親睦会での演説草稿を見た。“知識を交換し、世務を諮詢する”という言葉がはっきりと読める。交詢社は、小幡篤次郎が命名した日本初の会員制社交クラブで、今も銀座で続いている。福沢は、「独立した個人」がいかに他者と豊かな関係を築くかを重視し、Societyを「人間交際」と訳している。

 -「独立不羈」の日刊新聞『時事新報』発刊-

 【『時事新報』創刊号】(明治15年 1882年)
 『明治14年の政変の翌年、福沢が創刊した日刊新聞。福沢はこの紙面を通して世の中を導こうとした。明治後期から大正期には「日本一」の新聞と自他ともに認め、メディアとしてさまざまな先駆的アイデアも打ち出した。』(参考文献3:213ページ)

 -女性の地位向上を説いた女性論の先達-

 【福澤諭吉「日本婦人論」自筆原稿】(明治18年 1885年)
 福澤は創刊した日刊新聞『時事新報』に社説として女性論を掲載した。その自筆原稿が残っている。
 【福澤諭吉『女大学評論・新女大学』(福澤署名本】(明治32年 1899年)
福澤の集大成である論文を時事新報に掲載し、単行本として出版した。儒教中心の男尊女卑からの脱却と女性地位向上を説いた先達であった。

 -独立自尊と実業=ビジネスへの挑戦を説く-

 【福澤諭吉「尚商立国論」自筆原稿】(明治23年 1890年)
 『「尚武」の対概念として「尚商」という言葉を用いる斬新なこの論文で、福沢は官尊民卑を脱して経済人を尊ぶ必要を説くともに、彼らに「独立自尊」の気品を求めている。今日の慶應義塾のモットーである「独立自尊」の語はここで初めて使われた。』(参考文献3:211ページ)

 -永井荷風、森鴎外、上田敏、泉鏡花、谷崎潤一郎らが執筆する『三田文学』創刊-

 【『三田文学』創刊号】(明治43年 1910年)
 明治43年(1910年)、永井荷風を編集主幹に月刊『三田文学』が創刊された。森鴎外、上田敏、泉鏡花、谷崎潤一郎、佐藤春夫、堀口大学などが執筆した。現在も季刊で、三田文学新人賞を公募するなどして、人材育成を進めている。

(2)意外な発見だった面白い真実の展示
 -諭吉命名の由来といわれる漢籍-

 【福澤百助遺品『上諭条例』】(18世紀末―19世紀初頭)
 下級武士ながら学問を学び、蔵書家であった父百助が、命名のもとにしたと言われる中国清朝・乾隆帝治世の法令集『上諭条例』を見た。この書を入手した日に諭吉は生まれ、命名された。諭吉誕生の裏には学問に深い父があった。

 -パリでイケメン?の日本人諭吉は、無類の写真好き-

 【福澤諭吉写真(パリ、横顔)】(文久2年 1862年)
 福澤は個人写真を好み、挨拶代わりに送ったりもしていたとされる。パリ人類学博物館が、日本人の典型的顔つきとして福澤の写真を展示していた。今でいうイケメンだったのでしょうか。本展ガイドブックの表紙も飾っている。

 -1万円の肖像原画は- 

 【福澤諭吉写真】(明治31年 1898年)
  25年前の1984年、1万円札の顔が聖徳太子から福沢諭吉にかわった。その原画は明治24年頃の写真で、生前の福澤がもっとも気に入っていたと言われている。
 【日本銀行券 一万円札 2号券】(平成16年 2004年)
 2号券は、日本銀行より慶應義塾に寄贈された。

 -早慶野球戦の挑戦状-

 【早慶戦の挑戦状】(明治36年 1903年)
 早稲田大学野球部からの挑戦状を見た。第1回早慶野球戦は、三田綱町グランドで行われ、11-9で慶應が勝利した。加熱過ぎて一時中止されたが、大正14年(1925年)復活し現在に続いている。

(3)国宝・重要文化財含む福澤門下生の美術コレクション

福澤諭吉研究の作家 北康利(きた やすとし)氏は、著作の中で
『学者は業績で語られることが多いが、福澤諭吉の場合、彼が残した膨大な著作ではなく、むしろ慶應義塾を通じて築きあげた「福澤山脈」と呼ばれる人物群像にこそ真の面目がある。』(参考文献6:9ページ)
と述べて、豊穣な人物を紹介している。

 福澤諭吉の門下生が、実社会で活躍しながら文化的交際を大事にし、コレクションした美術品を本館2階特別会場で展示している。

 本展に寄せた慶應義塾長 安西祐一郎氏の言葉を紹介する。
『福澤諭吉という思想家・実践家のひとつの大きな特徴は、豊富な学識に基づく知力だけでなく、人の心と人間関係を感じる情の力、一生にわたって持続した意志と勇気、すなわち知と情と意の総合力を持っていたことにあります。この総合力を「常識」と呼ぶとすれば、福澤は古今東西にも稀有の常識家でありました。』(参考文献1:7ページ)

福澤は、19世紀最後の晩(明治33年大晦日)に「世紀送迎会」を開催し、その翌日、新世紀を迎えた朝に「独立自尊迎新世紀」を揮毫した。約ひと月後に福澤が没したため、これが事実上の遺墨となったという。日本の近代を、“教育”の力によって切り開いた福澤諭吉の独立自尊の精神に共感し、その偉大さに頭を垂れ、顔を上げて歩く。
参考文献参考文献
(参考文献)
 1.慶應義塾、東京国立博物館、福岡市美術館、大阪市立美術館、産経新聞社
   『慶応義塾創立150年記念 未来をひらく福沢諭吉展』ガイドブック(慶応義塾 2009年1月)
   Essay12編、主要参考文献、関連年譜も充実し、貴重な資料。
 2.産経新聞 2009年1月9日号、2月6日号
 3.講談社『創立150年記念パーフェクトガイド 慶應義塾』(講談社 2008年10月)
 4.福沢諭吉著、岬龍一郎訳『学問のすすめ』(PHP研究所 2004年6月)
 5.北 康利『子どものための偉人伝 福沢諭吉』(PHP研究所 2007年12月)
 6.北 康利『福澤諭吉 国を支えて国を頼らず』(講談社 2007年3月)

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