佐々木昭美のBIエッセイ 明るく楽しくイノベーション
2008/02/04 仕事・愛・未来-雪の鳴子温泉で朝まで熱い男女55名
宮城県と山形県の境となる山峡に、温泉の源泉種類が多く、こけしでも有名な鳴子温泉がある。東京から行くとすると、東北新幹線の古川駅まで2時間余乗り、陸羽東線に乗り換えて40分程で鳴子温泉駅に着く。1月19日(土)、全国から今年還暦を迎える男女55名が集合した。4クラスあった中学校同級会が開催され、同期卒業生160名余の1/3が出席した。私も関東組として参加した。朝まで熱い会話と酒に酔い、「青春」に戻った。同じホテルで同様に還暦を迎える数校の同級会があった。
昭和23年生まれは268万人で、団塊世代の丁度真ん中の世代である。全国で相当数の同級会が今年開かれると考えられる。還暦時の同級会は、最も開催され、最も集まる同級会と思われる。日本人の大きな社会現象、或いは自然現象の一つかもしれない。
自分の中学同級会のことを書くのは私的過ぎるかなとちょっと迷ったが、人生60年が戦後60年である団塊世代が自らを語ることは意味があると考え直した。
100年の智慧に繋がる貴重な実体験者の思いとしてご了承頂きたい。
(1) 故郷
-『季節(とき)はめぐり、また夏が来て』
(さとう宗幸 河出書房新社)
さとう宗幸さんの『青葉城恋唄』のこの詩を口ずさんだ方も多いでしょう。宗幸さんと親しく読んだのは、彼が高校時代の同級生であり、ファンでもあるからである。一度、NHK仙台センターの近くの彼の事務所を応援に訪ねたことがある。文武両道を謳った母校古川高校のあった旧古川市、私の故郷の旧田尻町、そして鳴子温泉のある旧鳴子町など宮城県北部の広大な地域が合併し、昨年大崎市が誕生した。同時に旧田尻町等の自治体名称は消滅した。しかし、私の故郷と問われれば、出る言葉は永遠に田尻町である。故郷とは離れて思うものだけではない。
故郷周辺の宮城県北部は大崎地方と呼ばれ、「ささにしき」で一世を風靡した米の穀倉地帯である。「米価闘争」の中心地域のひとつでもあったようだ。幼い頃に、研究熱心な父と一緒に古川農業試験場に育種の研究現場を訪れ、地域の方々のご協力で行う田植えの手伝いの実体験をもった世代でもある。
トラクターなど農業の機械化が始まり、兄弟姉妹数名の家族を賄うことはとても不可能なことが自明であった農業は主に長男が継ぎ、総じて次男以下は就職世代となって、故郷を離れた。正確な統計ではないが、1/3が故郷を支え、1/3が仙台中心に県内に就職し、1/3は関東中心に県外に就職したという感覚である。
(2) 歴史
-被占領国から独立国、国際化、自由主義陣営で世界第2の先進国へ
私たちは、1948年度に生まれた。未だ占領下で、極貧を体験もした。1952年4月28日に独立した。日本は、欧米の植民地になったことがない国なので、「独立記念日」と言わないのだろうか。
“I was born in Japan under the occupation army”
「私は、被占領時代の日本に生まれた」と海外の友人と話すことが多い。彼らは、歴史を詳細に話せる日本人を尊敬する。馬鹿にできない人間だとすぐ理解する。
16年前からインターネットビジネスの世界に入り、欧米のエリートたちと会い、食事をしながら懇親する機会が多くあった。彼らは、自分の国とその歴史や文化に大変誇りを持っている方が多く、教養のレベルが高い。日本の高校生が日本史を履修しないでも卒業できるという事実を言ったら、どんなに驚くのだろうかと想像がつかないほどである。私の世代は日本史は当然必修であり、年表や偉人の暗記は初歩的教養であった。
戦後日本は、再び工業技術への重点的投資と自由主義陣営の欧米による市場の開放と国際貿易によって、また公害、石油危機等を克服し、先進国第2の経済大国に成長した。
生後40年の1988年は、日本の絶好調の時期であった。
その後20年の日本は、他の先進国および新興国の成長に及ばない傾向にある。
第二次大戦が終わった直後に、東西冷戦が発生し、自由主義陣営と社会主義陣営に分かれ、どちらが人類にとって平和と幸福をもたらすかが争われた。約20年前の東西ベルリンの壁崩壊とロシア、中国、インドの自由主義経済への歴史的転換による大成長が進展した。人類は、経済生活の破綻と生命・自由の抑圧による悲惨な体験の後、100年間の歳月にわたる国家社会主義という大きな「理想」に、ノーの結論を出したと思われる。
私たちは、その真っ直中で人生を過ごしてきた。
(3)仕事
-20年間の高成長時代と20年間の低成長時代
関東、東海、関西の3大経済圏にとって、中卒の就職が「金の卵」と求められた高度成長世代である。
同級生は、中卒、高卒、大卒それぞれあるが、平均して20才を就業の年と仮定すると、職業生活前半20年は高成長、後半20年は低成長の時代に生きてきた。
席を頻繁に動きながら、できるだけ多くの友の顔を求め、お互いの近況を語り合った。
地元で働いている同級生の多くは、農畜業、商工・建設業、農協、教員・公務員などが多い。農業、自営業の従事者は、もちろん、その生産者の中心であり大黒柱である。前半20年は順調であったが、後半は減反と人口流出による地域経済の苦難の中で少数精鋭で新しい挑戦を続けており元気であった。勉強熱心である。公務員は今年定年が始まるが、地域で数少ない安定雇用の職場であった。
仙台周辺に住む同級生は、総じて地元中堅企業、大手企業の東北支店、金融・公益企業・公務員が多い。宮城県には世界的企業が少なく(一部その工場もあるが)、産業誘致も少なく雇用が厳しい地域である。私の兄弟は地元にいるが、その子供たちのほとんどは関東圏に就職している。元知事の「クリーンな政治」に一時熱狂した県民は、一転して雇用を求めて「産業振興」の知事に期待している。
関東同級会は数十名と多く、毎年楽しい同級会を秋に開催している。私は海外出張と重なることが多く数回出席したが、皆元気一杯である。職業は本当に多彩である。尺八奏者、材木商、運輸自営、企業経営、民間企業、教員等。女性は、結婚して専業主婦が多いが、仕事、趣味、ボランテイアなど活動的で極めて元気である。就職組は、定年を迎えつつある。故郷に帰るという声も聞いたが、少数である。多くは完全に関東が生活基盤となっている。
各人の人生は十人十色だが、個人のミクロに見える人生も、マクロの歴史、時代と切り離せなく強く繋がっていることに今更ながら嘆息せざるを得ない。
出生の時期は自分で選べないが、人生の船の海図設計と操舵は自分でしなければならない。
(4) 愛
-『愛燦燦』(Roppongi Wave Records『Black Letters Kei Ogla』
小椋桂が還暦に、赤一色の洋服を着て(スーパーベストII 『Déjà vu(デジャヴー)』 販売:東芝EMI株式会社 )をリリースした。無意識の夢を大事にしている。その彼は、昨年暮れの紅白歌合戦で『愛燦燦』を歌い、10月にリリースしたCD『Black Letters Kei Ogla』(Roppongi wave records)に特別版CD『愛燦燦』を同封してファンにサービス提供してくれた。愛は、人生を変え、人生を豊かにする。
同級の友60年の歳月には、どれだけの、どんな愛があったのだろうか。今後の愛はどうなるのだろうか。
中学生時代の同窓の初恋を語り合った。告白できなかた彼、彼女の情報も今となってはなつかしく明るい思い出として話し合える。同級生同士のカップルが2組参加した。皆、暖かく迎えて、自分たちの宝物のようであった。
家族を少し打ち明けた。20代で恋愛し、20代で結婚し、20代で第一子に恵まれた家族が多い。50代で孫ができ、夫婦二人だけの人生を歩み始めている方が多くなりつつあるようだ。
残念ながら、事故や病気で幽明境を異にする同級生が10名余となり、冒頭に黙祷し冥福を祈った。不遜だが統計論的に言っても、実際に再会した仲間たちを見ても率直に感ずるのは、今年60才を迎える世代は健康で元気なことである。艶に満ちている。
数十年続くTV番組「さざえさん」のお父さんの波平さんは50代前半の設定で毎年年齢は変わらないが、現在の目からは65才位に見える。人気マンガ『島耕作』の主人公は、専務となって60才の設定となっているが、40代後半に見える。日本人の健康寿命は75才以上となった。
高校生の時、スタンダール『赤と黒』を読んで、愛と職業の相克に激しい衝撃を受けた記憶がある。
永遠のエロスを執筆し、TVでも明るく艶な話をする瀬戸内寂聴『秘花』を最近読んだ。絶頂から70才台で佐渡流しとなった世阿弥。超逆境の中で心の支えとなる若い女性との出会い。
フランス大統領が3度目の再婚し、以外なことに、私事に寛容なフランス国民からの支持率が低下していると報道されている。元アメリカFRB議長は再婚し、すばらしく幸福であると日経新聞の「私の履歴書」に書いている。
愛は、音楽や小説にだけ表現するのがふさわしいのだろうか。
(5) 未来
-『人生の「秋」の生き方』(堺屋太一編著 PHP研究所)
堺屋氏の上記著作によると、古くからの東洋の思想では、人生は四季にたとえられているという。幼少期は「冬」で「玄冬」、成長期は「青春」、充実期は「朱夏」、そして実りの秋は「白秋」となる。「人生の後半は、・・・人生の収穫を楽しみ真の自由を愛でる秋なのだ。」
過去への郷愁を共有し合った後に、我々世代の関心は、やはり未来である。
現在、農業、自営業、経営者、アーテイストなど自らが主役で生産者である友人に迷いは感じられない。難関は自覚しながら、元気に活動している。
女性の多くは、目が生き生きして、笑顔は実に美しく若い。仕事、趣味、ボランテイア、遊びなど極めて現実的な目標とプランをもつリアリストであった。
サラリーマン、公務員で定年を迎える男性は、惑いと考えの最中にある方が多いようである。わかるような気がする。会社に人生を委ねてきた時期が終わるが、極めて健康であり、現実をどう受けとめるかに精一杯である。自分が主体的に人生を選択する喜びを実感するにはもう少し時間が必要なようである。
(6) 終わりに
-「夢とアイデアに恋した生き方」
最近、「夢とアイデアに恋した生き方-75才職業時代のキャリアデザインを考える」という講演テーマを追加した。
http://www.bi-p.co.jp/lecture/index.html
男女共に、健康寿命は75才以上の時代を迎えている。すでに欧米では年齢定年のない国があるが、日本も生産年齢65才定義は廃止する時期を迎えたと思う。
キャリアデザインという言葉が、若い世代の就職アドバイス中心でなく、本当に人間の一生涯を設計し、実践する人類史上画期的時代が到来したようである。
多くの人々が、否応なく人生を事実上60才定年まで企業に委ねて幸福と信じていた時代は終わった。
本当の意味で、自己責任による多様な一生涯の幸福を実現することのできる素晴らしい時代がやってきた。
ワーク・ライフ・バランスは、個人と社会の健康と成熟の産物である。